三食昼寝ブログ

脳梗塞の母/精神不安の嫁のリハビリを経験。それでも楽しく生きる三食昼寝ブログを書いていきます。仕事/人付き合い/絵を描く/食事/猫/三食昼寝ブログが大好きです。

不安をリハビリする【愉快な母の人生】④刺身の美味しい店と、コミュニケーションの取れない私。

母視点で書いてみました。

【外見からは分からない障害】

リハビリ病棟に入院中、友達が見舞いにきてくれた。

元気なころの自分と比較されないか、会話になるだろうか、と急に不安になった。

しょうがないので、アッそうなの!されで?どうして?と相槌や短い質問を繰り返すことにした。

「言葉のリハビリはどんなことをするの?」と、彼女。

「ウ〜ン…早口言葉…とか…」と、私は詳しく説明できないので、短い返事をした。

彼女は早口言葉と聞いて、すぐに言葉遊びをイメージした。本当は楽しい言葉遊びではなく滑舌の練習だけど、互いのイメージは完全にズレていた。

しばらくして、彼女の視線はベッドサイドに移った。 「鶴を折っているの?」

「ウン…まだ…ある…」

私は引き出しを開けて、中の折鶴を見せた。毎日折っているので、かなりの数になっている。

「鶴って案外、難しいよね。」と彼女は言いながら鶴を折りはじめた。

私は黙って見ていたが、彼女にどう思われるかと不安に気を取られていた。

言語リハビリの効果があるのは最初の1ヶ月。おまけしても3ヶ月から半年だそうだ。この時期を超えると、目に見えるほどの改善は期待できなくなる。

リハビリをやるか、やらないか…やるしかない!

やがて桜の季節を迎えた。リハビリの合間に、病院にある桜の木の下のベンチに座る。

桜をじっくり眺める。何もせずに眺める。いつまでも…眺める。以前は忙しく仕事をしていたなんて、ウソみたい…。

ふと20年前の、仕事で家庭訪問をした日のことを思い出した。

相手宅のエレベーターに閉じ込められた私は、あわてて緊急ボタンを押していた。係の人の声を聞くまで、ボタンを狂ったように押し続けるた。心細さはアッという間に恐怖感に変わった。

しばらくしてやっと係の人につながり、「大丈夫ですよ。もう少しで開きますからね。頑張ってください。」 と声をかけ続けてもらった。救出されるまでの会話のやりとりで、私はパニックにならずにいられた。

でも、今は違う。コミュニケーションが取れない。

夕方になると、リハビリ病棟は大勢の見舞い客で賑やかだった。彼らは私に目がとまると「あなたはお元気そうだけど、どこが悪いのですか?」と、戸惑いがちに声をかけてきた。 「体は動くのだから、上手く話せないだけならイイじゃないですか?それに大きな声じゃ言えないけど、オツムも弱ってないでしょ?不幸中の幸いでしたね…」と、慰められた。

この状態のどこが良かったというのか。私は、もう住む世界が違ってしまったことが寂しかった。

側にいた看護師は諭すように言った。 「あなたは何の病気なのか、外見からは分かりません。だから、退院したらいろいろ辛くなるでしょう。難しいけれど、自分の症状を周りの人に隠さないことも必要になりますよ。」

【リハビリ病棟は情報満載】

私は減塩食だから、退院後の食事が気になっていた。退院後しばらくは食事の宅配を頼みたい。 そこで、病院の献立表を見ながら、担当看護師に相談した。

「食事は…減塩で…カタログ…見たい…」

同じようにして障害者用グッズも相談した。血圧計、マヒがあっても使いやすい文房具に食器に台所用品のパンフレット。ここから自分に必要なものを探すことにした。 この作業はいろいろと考えることが多く、なかなか決まらない。値段、使用頻度、収納場所であたまの中はゴチャゴチャ。そこで、分かりやすく紙に表を書いてまとめてみた。

毎日利用する病棟食堂にも情報はたくさんあった。

まず、入院患者から介護保険について教わった。 彼女は老人ホームでボランティアの経験があるので、とても詳しかった。「あのね、介護保険の認定を受けるのが先よ。これは家族が困らないように必要だから、上手に利用したらいいわ。」説明は、シンプルに要点だけなので分かりやすい。

また、雑談も見直した。役に立つ情報が多く、貴重な裏話も聞けるし質問をする機会にもなった。

「…なんて言うか…えーと…困っている…えーと…だから…はっきり言うと…結局…」

実際はどうして困っているのか自分で整理できず、子供が大人の会話に割り込んだようだ。でも、私にはイイ脳トレになった。

病棟食堂で患者の付き添いをしているのは、女性がほとんどだ。女性は家事に育児に介護まで、なんとかやっている。もし介護者が男性ならそう簡単にはいかないだろう、と思っていた。でも労わりあう老夫婦に出会えた。

老夫婦の家は魚屋をしていて、旦那さんが昼と夜の2回、奥さんの食事の世話をしにきていた。

「俺があの世に行くときには女房も一緒に連れて行ってくれと、息子たちに頼まれてね。俺は若い頃から女房には苦労をかけっぱなしだから、今日まで魚屋をやれたのはぜんぶ女房のオカゲだよ。あんたの症状も良くなったらウチの店においで。美味い刺身をごちそうするからよ。」と、旦那さんは言った。

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【通院でリハビリ】

退院してからも、外来で言語療法を半年と作業療法を1年受けた。

➖言語療法➖

前半の3カ月は毎週1回、後半の3カ月は隔週1回通った。効果はあって、発音はだいぶ改善された。だが相変わらず「はい」「そうですね」と簡単な返事ばかりで、言いたいことを順序立てて言えなかった。 だから、リハビリは発音練習より会話練習が中心になった。

言語聴覚士は私に質問しながら会話をリードしていった。

私は、好きな食べ物や好きなスポーツの質問ならナントカなった。しかし「タマネギを刻みときには涙が出てしまうが、どうしたらいいか」とか「車を運転していて眠くなったが、どうしましょう」など、事態への対応をあれこれ考えて述べることになると、途端にシンドクなった。問題を聞いたときは簡単に思えるが、話し始めると難しすぎた。

でも私は、もっと複雑な問題を要求した。

「1歳と3歳の子を持つ母親です。そろそろ働きに出たいのですが、夫は家事と育児をやって欲しいからと賛成しません。さて、どうしたらいいでしょう。」

「『どうも目の具合が悪い』『糖尿の気があるんだ』と聞いてもいないことを自ら話したがる人がいます。あなたはどう思いますか。」

などだ。もちろん歯がたたない。

ある日、言語聴覚士に言われた。 「もう、あなたに教えられることが残っていません。考えを話す機会は、普段の生活でたくさんあります。あとは、家庭や地域で練習した方が良いでしょう。だから心配しないで、積極的に地域に出てください。」

このまま言語療法室の主になるつもりだった私は、ショックが大きい。

しかし、『あなたはもっと上達する』と太鼓判を押されたように感じ、迷いながらも言語療法室を卒業することにした。

これまで練習に使ったプリントは、100枚を超えていた。

作業療法

右手が重かったりダルくなるので、作業療法士に相談した。右手を酷使しないように気をつけていても、使いすぎてしまうようだ。

作業療法士のアドバイスで、家事の後には手首にコルセットを巻いて疲れをとるようにした。

なかなか職場復帰が見えてこないことで、私が不安になるたびに作業療法士は言った。

「私は患者さんの不利になることはしません。安心して何でも相談してください。将来的に仕事も可能だと思います。でも今は、目の前のリハビリを励みましょう。」

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【リハビリ科の待合室】

リハビリ科の通院は、朝からワクワクする。待合室で顔見知りと会えるからだ。

リハビリ病棟の元気なおじさん達は以前と少し変わっていた。

「今度は糖尿病で入院だ。」

「仕事の交渉が出来なくなってしまった。自分が何をどうしたいのかハッキリしない。取引先に行くのも疲れる。家族はこっそり後をつけてきて、『廊下を真っ直ぐ歩けてなかった』なんて言うし。社長は息子に譲ることにしたよ。」

リハビリ科の待合室は、ほかにも出会いがあった。

「あなたはどこが悪いの?」私ね隣に座ったおじいさんが声をかけてきた。口調はたどたどしく、ひと言ひと言に力を入れて話すのですぐ構音障害だと分かる。彼は20年前に、脳梗塞で右半身マヒと構音障害が残ったそうだ。

「若いときから…社交ダンスをした…倒れてからも…」「タンゴだろ…ジルバだろ…マンボだろ…ワルツも…女性が多いから…踊ってもらえた…こういう風に指を折って…手のリハビリをしたよ…」と指を折り始めた。

だが6年前に再発して、一週間は意識が戻らなかったそうだ。

「2度目に…倒れたときはダメ…踊れない…踊ってもらえない…タンゴ…ジルバ…マンボ…ワルツ…みんな踊れない…やめた…残念だけど…」

彼はリュックサックの中からペットボトルを取り出して、口を潤した。そしてリュックサックにもう一度、手を入れた。

「これ…俺の運転免許証と名刺…もう必要ない…今は運転してない…仕事もしてない…けど一生懸命だった…大変だった…けど…戦争に比べたら…何だってラクだ…」

「俺…若いときに…戦争で中国に行った…大砲を運ぶ…野砲兵だ…戦争が激しくなると…野砲兵も…前の方で戦う…敵の弾が…ビュンビュンかすめて…恐ろしかった…もうダメ…何度も思った…国は残酷だ…後に逃げたら…撃ち殺す…前に進め…命令する…前は敵…後退すれば…味方に殺される…どっちみち俺たちは殺される…」

4年後に再び日本の土を踏めた野砲兵は、ほんの僅かだったそうだ。 彼は夢中で働いて二度も脳梗塞で倒れたが、それでも生きている。 人生って不思議だ。山あり谷ありだけど、見ず知らずの私たちはそのとき、同じ病と戦う戦友同士だった。

入院中に隣のベッドにいた失語症の彼女にも再会した。私は彼女の隣に腰を下ろした。

「お互いに生きていて…よかったね…」

私は胸が熱くなり、これ以上は言えない。彼女はニコニコと頷いていた。交わした言葉は少ないけれど、これで十分だ。

入院中、同室だった彼女たちも集まってきた。彼女たちに囲まれて、私はリラックスできた。

私は彼女たちに遠慮なく伝えた。

「ごめん、自分の気持ちを、上手く言えなくて…」「もう少し、ゆっくり話して…」「私の名前を呼んでから、話して、私に、話してるって、分かるから…」

また、彼女たちとは話すコツをつかんだ。それは喋りすぎないこと。

自分のペースを守りながら話したり口を休めたりと、時間配分が必要だった。舌が前歯の裏にベタッと貼りついたりアゴの関節が痛んできたら、話すのに疲れてきたサインだった。根気が続かない、疲れやすいという症状は、私たち皆が抱えていた。

最後に一人の彼女が言った。

「…一人になると涙がでることがある…」

私たち皆は知っていた。それは、今も生きているという感謝の涙だ。私も医学がこんなに発展していなかったら、脳梗塞で命がなかったのではないか。そう思うと、日常の些細なことにも感謝したくなった。