母視点で書いてみました。
【海外帰国子女のフリ】
日常生活では話すことがたくさんある。
➖生協➖
毎週、生協の配送担当者から荷物を受け取る。
「こんにちは。暑いときは暑さは終わらないと思ったけど、もうすぐ冬ですね。季節はあっという間に巡りますね。」と担当者に声をかけられる。
…私はもう一度、彼の言ったことを並べてみる。 …夏….秋…冬…季節は巡る…か…。
➖新聞の集金➖
新聞の集金にくる学生は、ギャグの連発でサービス精神旺盛。でも、私には速くて分からない。
「おばさんは静かなのが好きですか?普段でもあまり笑わないですか?」と怪訝そうに質問される。
私は機関銃のような口調に圧倒される。
➖商店街➖
地域の美容院、病院、郵便局では喋らなければいけないので動悸がする。
パントマイムができたらいいな……あの言葉が思い浮かんだ。
「今の世の中、海外帰国子女が多いですからね。つい最近帰国したばかりで日本語をうまく話せない、と言えば大丈夫ですよ。」
これは、私が脳梗塞を発症したときの医者の言葉だ。 海外帰国子女のフリをすれば、日本語がヘンでも通用するかもしれない。
➖道をきく➖
電車の乗り換えで駅員に尋ねるとき、外国人のフリをした。
「この改札を出てまっすぐ歩き、それから右に曲がってエスカレーターを降りて、いったん外に出てから…」
すみません。駅員の説明は複雑で、よけい分からない。 改札を出て、今度は女の人に尋ねた。
すると彼女は嫌な顔をせず、さりげなく手で方向を示しながら簡単に説明してくれた。
➖道をきく②➖
迷子になった。
往来の人たちは忙しそうに、私の前を通り過ぎていく。でも私は、なかなか声をかけられない。
しばらく待っていると、坂道の下から女の人が自転車を押しながら、ゆっくりと近づいてきた。
道を尋ねたいが、なんて切り出そうか迷う。
「駅…行きたい…どこ…ウーン…日本語…難しい」
彼女は自転車を止めて説明してくれた。
本当は「道に迷ったのですが、駅にはどう行ったらいいですか」とか「駅までの道を教えてください」と言いたかった。
➖タクシーに乗る➖
タクシーの運転手に行き先を伝えた。 すると、個人タクシーの運転手から、妻も言語障害者だと聞かされた。彼女も、私と同じ病院でリハビリしていた。
「みんな、よく頑張っているよ。オレは、そんなに頑張らないでもいいと思うよ。うちのヤツにも、そう言ってやるんだが…」と運転手は言った。
話を聞くと、NHKのアナウンサーも言語療法を受けているとのこと。
不謹慎だが、仲間ができたようで嬉しかった。
➖電話対応➖
一番不安なのが電話対応だ。 声で判断されると思うだけで動悸はするし、ノドも締めつけられる感じがする。もう電話を見るのもイヤだ。
「はい、○○です」と、一文字ずつ区切ってゆっくりと名乗る。カの音がキャとなってしまい、さらに緊張する。友達との電話では、自分の声の様子を聞いてみる。
「息が苦しそうだよ。息継ぎなしで話している感じ。肺活量が少ないのかな?」
「アクセントがないから元気なさそう。こもった声に聞こえるよ」
「今日は最後のほうで舌がもつれたね」
息苦しくなるのは、吐く息をコントロールできないから。電話相手には気落ちした印象を与えるので、事情を知らない人が聞いたら怪訝に感じるだろう。
【障害を活かす】
普通に話せないなら今後は手話を使いたいと思い、聾学校の手話講座に参加した。そして講座の最終日に、聾学校の卒業生の体験談を聞いた。
彼らは長い期間を聾学校で過ごし、就職や進学のときが大変だ。親や教師と共に自分の障害を活かせる道を探すが、せっかく進学しても問題は多い。なにしろ講義の声が聞こえないので、板書がないと授業にならない。
そこで、聴覚障害の学生をサポートする制度を活用する。その一つが、授業内容をノートに記録する『ノートテイク』という制度だ。クラスメートやボランティアの人たちに頼んで、聴覚障害学生の隣に座ってもらい、授業の内容まで伝わるように詳しくノートをとってもらう。
「ノートテイク制度はとても助かります。ノートテイカーがもっと増えると嬉しいです。私は小学生で徐々に耳が聞こえなくなり、中学は聾学校へ入学しました。聾学校で手話と、口の動きを読む読話を習いました。大学二年生の今は、手話のできる健常者を増やすために手話を教える活動をしています。そして、困っていることを声に出す事で、私は両者の架け橋になる道を広げていきたいです。」と、卒業生は夢を語った。
失語症者の会話パートナーをしている女性の記事を読んだ。新宿駅の改札口付近で、言語障害者に道を尋ねられたという。ちょうど失語症のことを勉強していたので、彼女は自然体で接することができたそうだ。
この障害者は、たぶん状況からして私のことだ。
私は構音障害を負ってから、2つのクセが強くなった。
会話の途中で「私の言いたいこと、分かる?」と、しつこく確かめるクセ。
上手く話せなくて、話しながら自分の右頰を叩いてしまうクセ。
私の気持ちは伝わったのか、本当に分かってもらえたのか、不安になる。 相手の返事は「心配しなくても大丈夫。よく分かるよ。」と、いつも同じだった。家族は「もう慣れたから、何とも思わないよ。前の話し方は忘れちゃった。」と、あっけらかんだ。
まわりの人たちは、私が思うほど気にしてないようだ。それならば、あれこれと人の目を気にしていたら身がもたない。
【退職】
リハビリで2カ月間の入院が終わると、私は急いで職場に行った。
玄関ホールの香りは変わらないが、私の靴箱はない。 職員の共有スペースとして物が積まれ、私の机もない。 私は、身の置き所もない。 なんだか『浦島太郎』みたいだ。
復職の話し合いは、惨憺たるものだった。
人事係は、限られた時間にたくさん質問をしようと、早口になる。
「仕事をする気はありますか?」 私「あります。」
「仕事をやれる自信はありますか?」 私「あります。(やってみなけりゃ分からないよ)」
「体調が良くなったから自信が出てきたのか、それとも体調には不安があるが意欲は残っているのか、どっちですか?」 私「・・・(自信?不安?意欲?)」
たたみかけるように言われても、私は分からない。 激しい動悸がして、唾液は干上がり、声も出ない。 チビチビと水をすすっては、口を潤す。 まるで、ヘビに睨まれたカエルだ。
でも、退職しますとは、口が裂けても言わない。
人事係は顔を引きつらせ、何度も頭を下げた。
「すみませんが働けることを実証してください。我々公務員はボランティアではないので、これ以上あなたの面倒は見られません。前例がないので自主的に退職をご自身でお決めください。」 私「・・・(血圧急上昇)」
面談が終わると、血圧は215-115だった。
このような話し合いは50回以上。ただ、役所に出向いたのはわずかで、もっぱら電話を使うことにした。 電話恐怖症の私が電話で勝負するのはヘンだが、面談でみじめになるより、はるかにマシだ。
というワケで、電話の周りに何枚もメモを並べて、深呼吸してから受話器を握った。そして相手の質問を聞くと、返事となるメモを探して、ゆっくりと読み上げた。慣れてくるとカルタのように手がのびて、返事はだいぶ楽になった。
こんなことの繰り返しを3年間。 もう復職したいのか、したくないのか、自分でもワケが分からなくなった。
戦意を無くし、退職することにした。 でも、復職交渉を続けて頭を酷使したおかげか、構音障害はあまり目立たなくなっていた。
追い詰められると、バカぢからが出るものだ。