三食昼寝ブログ

脳梗塞の母/精神不安の嫁のリハビリを経験。それでも楽しく生きる三食昼寝ブログを書いていきます。仕事/人付き合い/絵を描く/食事/猫/三食昼寝ブログが大好きです。

不安をリハビリする【愉快な母の人生】①日本語と英語が話せない帰国子女

母視点で書いてみました。

脳梗塞になった】

2003年1月24日、50歳の誕生日の直前に、私は『脳梗塞』になった。 右側の上下肢のマヒと、運動障害性構音障害という言語障害が残った。

病気になる前の数年は仕事に没頭していたので、疲れはピークに達して体が悲鳴を上げてしまった。

まるで地震で崩れた家の下敷きになり、一人とり残されたようだ。

このまま思うように話せず、右手も使い物にならないで、残りの人生を、送るなんて。 涙は止まらず目は腫れ上がり、やっと正気に戻ったころは数日が過ぎていた。

でも、悲しみに浸ってはいられない。

言語障害を返上し、すぐに仕事に、戻らなければ…。 私はいても立ってもいられず、すぐにリハビリにすがりついた。

聞いたこともない運動障害性構音障害とやらに、はがいじめにされたままだった。 この障害は謎だらけで、復興には10年もかかってしまった。

まずは順を追って、不自由極まりない日常を綴りたいと思う。

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➖発症前日➖

真っ暗やみで、見えない!私は何度も目をこすった。

朝の通勤で、駅のエスカレーターに乗った瞬間だった。 エスカレーターを降りる直前で、この症状は消えた。せいぜい20秒ぐらいの衝撃だった。 不思議に思いながら、私はまっすぐ職場へ。

しかし頭はボーッとして、何か変だ。

朝の職場のミーティングで、仕事の段取りを指示できない。それに、部屋の室温を測るが温度計を読み取れない。しばらく温度計とにらめっこで、測定結果を書こうと右手でボールペンを持つが、

字が書けない。

会議で司会をしても、何を話してよいのか分からなくなった。

できない?!分からない?!いつもと違う?!私はワケが分からなくなった。

➖その夜➖

夫に付き添われて、地域の病院を受診した。

当直の内科医は、私の頭部のCTを見ながら言った。

「今の段階では異常はないです。しかし早期ではCT検査も100%ではないから、明日も具合が悪いようなら受診してください。」

➖発症当日➖

出勤して鏡を覗くと、口元が左にねじれてヒョットコみたいだった。次々とかかってくる電話に、「おはようございます」の一言が言えない。相手の言葉も復唱できない。 「…はい…」と、やっと返事をするだけだった。

慌てて早退して、昨日と同じ病院に駆けこんだ。

アッという間に話せなくなり、頭の中で…分からない…分からない…の言葉がエコーしていた。

体が疲れて立っていられない。

医師の診断を待たずにすぐ病院のベッドに横になり、点滴を受けた。

しばらくして大学病院の神経内科医が駆けつけ、「脳梗塞です。しばらく入院しましょう」と言われた。

➖次の日➖

何を尋ねられても喋れない。

ならば筆談!と鉛筆をとってみるが、力が入らないので文字は一箇所で重なって、イトミミズがはっているようなあとができた。

筆談も無理。

呆然としていると、看護師が声をかけた。 「何か困ったことがあったら、何でも言ってくださいね。」

何でも言ってと言われても、私は何も言えないし書けない。瞬間、涙が堰を切った。

私を心配して、看護師は頻繁に様子を見にきては、同じ言葉をかけてくれる。私の状態を全然分かってもらえないし、自分から知らせることも無理だった。もう彼女と分かりあうことは永遠にないだろうと思えた。

神経内科医からは「脳の血管の詰まったところがあと1cmずれていたら、両目の視力を完全に失っていました。大きな障害を負わなくて、本当に良かったですね」と説明された。

だが、頭のエンジンはかからず、他人事のようにボーッと聞いていた。

一瞬にして、50年の歳月を根こそぎかっさらって行かれた。

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【クスッと笑って、スタート】

カーテンを閉めきって泣いている私に、夫はビシッと言った。

「まだ息子たちは一人前になっていない。だろ?」

そうだった、まだまだヒヨッコだ。私は一瞬、母親に戻った。でも、この先どうなるの?

不安そうな私に、夫はいかにも楽しそうに言った。

「大丈夫!モデルがいるじゃないか。オヤジだよ!脳梗塞で、言語障害と右半身の麻痺。医者には、一生クルマ椅子の生活になるだろうって言われたけど、良くなったじゃないか。自己流のリハビリだったが。」

競馬に行きたい一心で、自己流のリハビリを始めた義父と、見守るしかない家族。これを夫はドタバタ劇にしてくれた。泣いている私はクスッと笑った。

夫は、息子たちとのことも喜劇風にしたてた。

「金は十分あるの?連絡くれたら、俺、飛んで行くけど…と言ってきたよ。金のないヤツに金の心配されたよ。だから、今はピタリと張りつくことはないが、番犬以上には役立つことをしてくれ…と言っておいた…」

サポートする人手は、最低2人できれば3人必要になる。

入院治療は3週間ほど続いた。その間は一日中ベッドの上で点滴しながら、たくさんの検査を受けた。

頸、腹、心臓のエコーと頭のCT。動脈硬化は血圧脈波で。近くの都立病院でMRI検査。心電図、レントゲン、血液と尿検査、眼科で視野検査も。就寝中、舌がノドをふさぐ感じで目が覚めるので、無呼吸症候群も。

これらの検査結果から、原因を特定して治療方針を決めた。

主治医は患者の命を救うことを最優先するが、私が一番気になるのは後遺症のことだ。主治医に何とかツライ気持ちを伝えたい。

そこで私は口元を指差して「言…え…な…い」と絞りだした。

ロレツがまわらないから『先生!私の後遺症、何とかなりませんか。前より良く…なんて望みません。ただ、発病前の状態になりたい…』と、目で訴えた。

主治医は私を見つめ、困った表情を浮かべると遠慮がちに言った。

「…なんだか…海外帰国子女…みたいですね…」

ヘンな慰め方だが、私はクスッと笑った。

すると主治医は笑顔になって妙案を出した。

「今の世の中、海外帰国子女が多いですからね。つい最近帰国したばかりで日本語をうまく話せない、と言えば大丈夫ですよ。」

イザとなったら、この手があったか!どの国にいたことにしよう、その前に英語も勉強しなければ…。

だんだん愉快になってきた。