三食昼寝ブログ

脳梗塞の母/精神不安の嫁のリハビリを経験。それでも楽しく生きる三食昼寝ブログを書いていきます。仕事/人付き合い/絵を描く/食事/猫/三食昼寝ブログが大好きです。

不安をリハビリする【愉快な母の人生】⑧私とあなたへの感謝状

母視点で書いてみました。

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【これからもリハビリ】

脳梗塞から10年目、私は無事に還暦を迎えた。 途中で大病もしたが、なんとか乗り越えた。 同時に、家の片づけやアルバムの整理などの身辺整理もした。 それは、「また冠動脈がはがれたら命は7分しかありません。」と、医者にクギをさされたからだ。

体調が一段落した今、近所の整形外科でリハビリをやり直している。

➖手と足のリハビリ➖

マヒ足をかばうので、どうしても健足に重心を置いてしまう。健足の小指側の3・4・5指に体重がかかり、筋肉が突っ張るので健足のアーチがなくなっている、と医者は指摘する。 そのため、足の甲にやんわりと包帯を巻きつける。これで、足の指先を支えている筋肉のこわばりも、ほぐす効果があるそうだ。

他にも、座ったまま足首を伸ばして持ち上げる足首体操をしている。骨密度は低下しているので、階段の上り下り・ラジオ体操・フラミンゴ体操も欠かさない。

手は、疲れすぎないように家事を工夫している。

➖言葉のリハビリ➖

何を話すか考えるだけで、首から肩にかけて力が入って肩や腕がだるくなるが、この症状が改善されてきている。 まわりの人からも、「まったく普通に話せている。」と驚かれる。 でも、複雑な話はできるだけ書いている。

➖服薬➖

降圧剤は減って、1錠だけ残った。 数ヶ月ごとに1錠→0.5錠→0.25錠→0.125錠と爪で割って、勝手にどんどん減量してみた。 そして、「人体実験みたいに、体の反応を確かめながら飲んでいます。薬を割るのも器用になりました。」と医者に伝えた。 すると医者は呆れながら「危険だよ!意味がないので、もう飲まなくてもいいです!!」と、やっと言ってくれた。 だから、副腎腫瘍の手術から3年で、降圧剤は中止になった。でも、薬を止めても8ヶ月くらいはハプニングが続いた。薬を止めた副作用で血圧が急に190に上がり、何回か救急車を呼んだ。

今までに常用した薬は、降圧剤・抗血小板薬・睡眠剤カリウム薬・ステロイド・胃腸薬などだ。これらが一気に減って、今では抗血小板薬・胃腸薬の2種類だけになった。 これまでは、さまざまな薬の副作用に苦しんだので、夢のようだ。

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最近、心臓の定期検査で検査技師から言われた。 「あなたは冠動脈かい離だから重症中の重症だけど、何が原因だったの?」 私「エッ⁈私、そんなに悪かったんですか?」 「エッ⁈医者の説明はなかったの?」

あったハズだが、私は覚えていない。目が点になった。 私が集中治療室にいたのは病室が満床だから、と思っていたが、まさか重症だったとは...。 今となっては、自分の症状が分からなくて救われた気がした。

また、身体障害者手帳を申請した。 一番つらかった言語障害は、あまりに改善したので手帳は取れないと言われた。 ちょっぴり残念な気もしたが、リハビリを続けた甲斐があった。 手足の障害は対象となった。

私の10年間は、医療関係者をはじめ多くの方に温かい言葉をいただき、一日一日をひっそりと暮らしてきた。 家族も、いつもと同じだった。 本当に感謝しても、しきれない。 私の体にも、伝えたい。 「60年も私に付き合ってくれて、ありがとう。これからは、もっと大事に使わせてもらうから、よろしく!」

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【夫への感謝状】

息子たちが誕生すると、すぐに夫は貯金通帳と印鑑をプレゼントした。 彼らが実際にこれを使うのは、成人してからだ。

その夜、赤ん坊の寝顔を眺めながら 「この子がいつか就職するなんて...ウソみたいね。」と私は、大人になる息子なんて想像できない。 しかし夫は、「この子が大人になる頃には、俺の頭は真っ白になるだろうな。」と、早くも20年後の息子たちを思い描いていた。

幼児期の息子たちにとって、夫は高くそびえ立つ壁だった!

次男はテープレコーダーを大きな音で聞いていて、注意されても知らんプリ。とうとう夫に取り上げられた。

「お母さんはお父さんのこと好き?お父さんをどこかにあげちゃって、ゴリラをもらおうよ。だってお父さんは、ボクのテープレコーダーを取っちゃったんだよ。」

でも夫が留守だと「お父さんはどうしていないの?家に帰ってこないの?」と、ベソをかく。

「お母さん、悪いオジサンが来たら誰がボクを守ってくれるの?お母さんじゃ、悪いオジサンをやっつけられないし...」と、夫が入院中は不安顔の長男。

でも夫が退院すると「ボク、お父さんが帰ってきて嬉しいけど、コワイからイヤだなぁ」とぼやく。

つまり彼らにとって夫は、いると恐いし、いないと心細くなる存在らしい。

小学校に通うようになると、兄弟はスクラムを組んで夫に挑んだ。

➖弟の大ピンチを兄が救う➖

家の中には墨の匂いが漂っていた。どこかに墨汁がこぼれていないかと大騒ぎになった。家族で探したが分からない。不思議なこともあるもんだ。 だけど、弟の傍が一番匂う。クサイぞ。それまで黙っていた弟がひと言口をきいたトタン、匂いの正体がバレタ。あっ、飴だ! これは薬用の飴で、墨の匂いがした。

無断で舐めてはいけない、と夫に叱られ弟は庭に出され、夫はそれから外出した。

早速、兄は弟の救出作戦を開始。 まず、立たされている弟をすぐに家の中へ入れた。 それから、風邪気味の弟に昼寝を命令。 目覚めた弟にジャンバーを着せ、いつでも外に出せるよう準備万端。 その上、「いいか、お父さんが戻ってきたら、ずっと外に立ってたフリをしろ!」と、弟にチエをつけていた。 ホーッ、なるほど。 私は、この作戦にすっかり感心してしまった。

弟は文句一つ言わずに、兄に従っていた。 「ボクの方が落ち着かないよ。」と窓の外を伺い、夫の帰りを見張る兄。そして夫の姿を見るや、「早く外に出ろ。いいな。」と急いで弟の背を押した。

「ほう、今まで温かい所にいたような顔をしてるな。」 夫は笑いながら、外にいる弟を連れて部屋へ戻ってきた。作戦はイチオウ成功。 「お兄ちゃんはとても優しい。」 弟は嬉しそうだった。

➖兄弟仲良く同じ目に➖

自分で寝た布団は、自分でたたむ。 自分で使った食器は、食後に流しまで運ぶ。 使ったものは、自分で片付ける。

しかし、忘れたのならまだしも、兄弟はやろうとしない。注意されても、気づかぬフリ。 私はギブアップし、夫にバトンタッチした。

夫の注意は、じつにカンタン。

布団が上げられない?ナラ、布団は使うな!畳の上でネロ! 食器を流しに運べない?ナラ、食うな! と、マァこんな感じ。

夫恐さで兄弟は従う。でも自分からはナカナカやらない。 「これからは注意を一切しない!」と、夫は兄弟に宣告。更に「自分で気づかなかったらどうする?」と問うた。

兄「へそくりの5千円...払う。」 弟「テレビ一週間...見ない。」

兄弟は、とっさに答えた。大丈夫だろうか。 夫は、理由も聞かず約束を実行。 兄弟ナカヨク、同じ目にあう。 不思議なことに、彼らの文句や愚痴はナシ。

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➖ありがとう➖

赤ん坊とはこんなに手のかかるものだった。 赤ん坊とは自分の思い通りにならない生き物だった。 私たちは、それに気づいた。 「息子が大きくなる頃は、俺の頭はスッカリ白髪になっているナ」と予想していた夫。 予想はハズレ。 思い通りにならないのは、息子だけではなかった。 夫の頭も同じこと。 今は見事に禿げ上がった。 でもそれは、子育てがブジ終わってやっと手にした、ピカピカの金メダルなのだ。 メダルと一緒に、感謝状を送りたい。

『本気で、息子たちと張り合ってきた、夫へ。 終わってみれば、スリル満点。 ユカイな子育てだったネ!ホントに。 貴方がいたから、私はノンキな母でいられたの。 (ハハ、ノンキだね〜、ナンテネ) ありがとー

妻より』

不安をリハビリする【愉快な母の人生】⑦ドキドキ花火

母視点で書いてみました。

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失語症の友達】

リハビリを始めて4年目、私は各駅停車の電車に乗った。ホームの駅名を確認しながら、いくつかの駅を通過した。そして、失語症の友達と電車に乗ったときの出来事を思い出した。

彼女は、手にした電車の路線図を見つめていた。 「私ね...漢字を...パパって読めないの。小学3・4年生の漢字も...難しくて...すごく時間がかかるの。ホームの駅名をチラッと見ても...漢字がわからないから...慌ててしまう。電車の中で...こうして話していると...よけいに難しいの。電車の乗り換えがあると...緊張して...ここはどこ?って...慌てるの。」

私は彼女になってみた。 はたして、渋谷駅の膨大な掲示を読めるだろうか。 漢字には、フリガナがない。 外国人向けに、ローマ字の表示があるだけだ。 漢字が読めなければ、しるしがあっても動けない。

私は、南口を通り抜けて、34番のバス停でバスに乗る予定だ。 でも、降りた場所は南口ではなく正面口だった。 そのまま人の流れに逆らわないで正面口を通過し、なんなく南口に戻った。 ここまでの表示は、すべて漢字だった。彼女だったら、表示の前で途方にくれるだろう。

さて34番のバス停は?と、辺りを見回すとすぐに、見つかり一安心。念のため、バスに乗り込むときに行き先を確認した。 「次は○○○に止まります。」と、アナウンスが流れた。バス停を通過するたびに、次の停留所を確認できた。 彼女でも、耳を凝らせばアナウンスは聞けるか...。 駅・バス停・地図・看板、街中に文字情報が溢れていても、見知らぬ場所では迷子になるだろう。

私は重い足どりで家路へ。 最後の坂道にさしかかり、大きな掲示板が見えた。 『この先急坂 事故多発 一時停止』 危険を知らせているが、フリガナはない。

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【心臓病になった】

脳梗塞から5年後、2008年5月16日、私は救急車で広尾病院の集中治療室に搬送された。

『不安定狭心症』と診断され、次の日にカテーテル検査を受けた。だが、検査中に『心筋梗塞』が起こった。心臓を取り巻く1本の冠動脈がはがれ、出血多量になった。 すぐにステントを2本挿入し、血流を維持したので、一命は取り留めた。 もしも再び『心臓冠動脈かい離』が起きたら、命は7分しかもたないそうだ。 元々の『難治性の高血圧症』のほかに『不安定狭心症』と『低カリウム血症』が見つかったので、内分泌検査を受けることになった。1ヶ月間かけて、3種類の副腎の検査をした。

まず『原発性アルドステロン症』が疑われたので、副腎の腫瘍から血圧を上げるホルモンが出ていないか検査した。 だがホルモンは出ていなかった。 次に『褐色細胞腫』が疑われたが、この検査も空振りになった。 主治医は「副腎のホルモンについては、見つけたらモウケモノ、ぐらいの気持ちでいてください。ダメで元々なので、薬で対応しますから。」と、慰めてくれた。 でも、ついでだから可能性は低いくどと、『クッシング症候群』も調べてくれた。

糖質液を飲んで、30分後から2時間かけて4回採血、血糖値を測定。他にもステロイド内服薬を2日間飲んだ。 この検査では就寝前に4錠、次の日の就寝前に16錠を飲んだ。そして30分もすると全身汗だくで眠るどころではなくなり、夜中にナースステーションで氷枕を借りた。顔のほてりと足のむくみも酷くて、気持ちが悪かった。

翌朝の採血で、副腎から血圧を上げるホルモンの、コルチゾールが検出された。

さらに、副腎MIBG検査を行った。甲状腺を守るためのヨード剤を5日間飲み続け、真ん中の3日目に放射性物質を注射した。4日目と5日目に1時間半ずつレントゲン撮影をしたら、左副腎だけに光が集まり、左副腎の働きが過剰なのが分かった。

この検査結果を持って、内科医は私の病室に飛んできた。 「おめでとうございます!原因が分かりました。『プレ・クッシング症候群』です。腫瘍のある左副腎のみが働いていて、右副腎は完全休業状態です!」

開口一番、おめでとうございます、と言われて戸惑っていると説明が始まった。 「クッシング症候群は、副腎にできた腫瘍からコルチゾールというホルモンが多く出てしまいます。それで、血圧を上げてしまうのです。そればかりではなく、糖尿病と骨粗しょう症にもなりやすいです。このホルモンは、1ミリの10億分の1、という小さなもので常に現れるものではありません。たまたま検査中に現れて、大変幸運でした。5つの検査も全部がクロとなったので、やっと病名が付きました。今後は心臓の様子を見ながら、副腎腫瘍の手術をしましょう。東京女子医大の内分泌外科が、手術の症例も循環器系も充実しているので、推薦状を書きますよ。」

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【クッシング症候群】

狭心症のステント留置術から4日後・3ヶ月後・1年後の3回、心臓が安定しているか調べるために入院し、カテーテル検査を受けた。 3回とも、右の冠動脈は正常、左側はステント再狭窄なし、心室の動きも問題なし。 そこでやっと、循環器科から副腎腫瘍の摘出手術を許可された。

動揺している私に、内科医は言った。 「あなたの場合は、眠っていれば終わる手術です。お腹から内視鏡を入れるから、傷口も小さくて後が楽です。手術は、慣れている病院で受けるのが一番です。終われば、今飲んでいる降圧剤を減らすことができます。」

循環器科医も励ましてくれた。 「ステント部分も異常なしです。心臓の各部屋も異常なしです。自身を持って、手術を受けてきてください。」

だが、狭心症から一年で、私の体調はどんどん酷くなった。 難治性の高血圧症だから、最高量の薬を飲んでも効果なく、血圧は急上昇。 耳鳴りや両手足のシビレも酷くなった。 家事も普通にできず、食欲もなく、体はしなびてしまった。 外出しても、横断歩道を渡りきらないうち、赤信号に変わってしまう。 駅では、立って電車待ちをするのが、つらい。 私はすっかり、老化してしまった。

2009年1月に夫に付き添われ、東京女子医大の内分泌外科を受診した。 だが広尾病院と違って、私の心臓にはリスクがあるからと、内分泌外科の反応は慎重だった。麻酔科には、手術はできないと断言された。だから、話し合いはすぐに暗礁に乗り上げてしまった。

でも、入院する5月末まで10回ぐらい、夫は主治医と粘り強く話し合った。私は上手く話せないので、ただ黙って夫の隣に座っているだけだった。

話し合いは、今までの症状と、改善の可能性。 入院前検査、入院中の治療方針。 血液が固まりにくい薬を飲んでいるので、手術の方法とリスク。 手術後のホルモン調整と副作用など。 このような質問事項を整理して、医者と交渉するのは、私では全く役に立たない。

二人の話し合いは、はじめは距離があったがジリッジリッと縮まって、やがて手術が決定した。

私は、入院するといよいよ手術だ!と、ドキドキしっぱなしだった。 待合室で『ねこラーメン』のマンガを読んだり、『忍たま乱太郎』のアニメを何度も見て、気を紛らわせた。このアニメソングは『そうさ!100%勇気!もう、やりきるしかないさ!』と元気に歌うので、私の応援歌になった。

手術が成功すれば逆転ホームランだが、失敗しても眠っているうちにあの世へ行けるので、どちらに転んでもいいことにした。 6月3日に手術、そのあと1日は集中治療室にいたが6月13日に退院と、予想に反して経過は順調だった。

退院後は、休んでいる右副腎が働き始めるまで8ヶ月間、ステロイドを飲み続けた。副作用はきつかったが、手術から1年半が過ぎると、副腎の働きも脳下垂体からのホルモンも正常に戻った。

「今までは、日本刀の上を素足で歩いている感じだった。落ちても一巻の終わりだったけど、よく歩いてきたね。」と、夫はしきりに感心していた。

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不安をリハビリする【愉快な母の人生】⑥自主的に退職するまで

母視点で書いてみました。

【海外帰国子女のフリ】

日常生活では話すことがたくさんある。

➖生協➖

毎週、生協の配送担当者から荷物を受け取る。

「こんにちは。暑いときは暑さは終わらないと思ったけど、もうすぐ冬ですね。季節はあっという間に巡りますね。」と担当者に声をかけられる。

…私はもう一度、彼の言ったことを並べてみる。 …夏….秋…冬…季節は巡る…か…。

➖新聞の集金➖

新聞の集金にくる学生は、ギャグの連発でサービス精神旺盛。でも、私には速くて分からない。

「おばさんは静かなのが好きですか?普段でもあまり笑わないですか?」と怪訝そうに質問される。

私は機関銃のような口調に圧倒される。

➖商店街➖

地域の美容院、病院、郵便局では喋らなければいけないので動悸がする。

パントマイムができたらいいな……あの言葉が思い浮かんだ。

「今の世の中、海外帰国子女が多いですからね。つい最近帰国したばかりで日本語をうまく話せない、と言えば大丈夫ですよ。」

これは、私が脳梗塞を発症したときの医者の言葉だ。 海外帰国子女のフリをすれば、日本語がヘンでも通用するかもしれない。

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➖道をきく➖

電車の乗り換えで駅員に尋ねるとき、外国人のフリをした。

「この改札を出てまっすぐ歩き、それから右に曲がってエスカレーターを降りて、いったん外に出てから…」

すみません。駅員の説明は複雑で、よけい分からない。 改札を出て、今度は女の人に尋ねた。

すると彼女は嫌な顔をせず、さりげなく手で方向を示しながら簡単に説明してくれた。

➖道をきく②➖

迷子になった。

往来の人たちは忙しそうに、私の前を通り過ぎていく。でも私は、なかなか声をかけられない。

しばらく待っていると、坂道の下から女の人が自転車を押しながら、ゆっくりと近づいてきた。

道を尋ねたいが、なんて切り出そうか迷う。

「駅…行きたい…どこ…ウーン…日本語…難しい」

彼女は自転車を止めて説明してくれた。

本当は「道に迷ったのですが、駅にはどう行ったらいいですか」とか「駅までの道を教えてください」と言いたかった。

➖タクシーに乗る➖

タクシーの運転手に行き先を伝えた。 すると、個人タクシーの運転手から、妻も言語障害者だと聞かされた。彼女も、私と同じ病院でリハビリしていた。

「みんな、よく頑張っているよ。オレは、そんなに頑張らないでもいいと思うよ。うちのヤツにも、そう言ってやるんだが…」と運転手は言った。

話を聞くと、NHKのアナウンサーも言語療法を受けているとのこと。

不謹慎だが、仲間ができたようで嬉しかった。

➖電話対応➖

一番不安なのが電話対応だ。 声で判断されると思うだけで動悸はするし、ノドも締めつけられる感じがする。もう電話を見るのもイヤだ。

「はい、○○です」と、一文字ずつ区切ってゆっくりと名乗る。カの音がキャとなってしまい、さらに緊張する。友達との電話では、自分の声の様子を聞いてみる。

「息が苦しそうだよ。息継ぎなしで話している感じ。肺活量が少ないのかな?」

「アクセントがないから元気なさそう。こもった声に聞こえるよ」

「今日は最後のほうで舌がもつれたね」

息苦しくなるのは、吐く息をコントロールできないから。電話相手には気落ちした印象を与えるので、事情を知らない人が聞いたら怪訝に感じるだろう。

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【障害を活かす】

普通に話せないなら今後は手話を使いたいと思い、聾学校の手話講座に参加した。そして講座の最終日に、聾学校の卒業生の体験談を聞いた。

彼らは長い期間を聾学校で過ごし、就職や進学のときが大変だ。親や教師と共に自分の障害を活かせる道を探すが、せっかく進学しても問題は多い。なにしろ講義の声が聞こえないので、板書がないと授業にならない。

そこで、聴覚障害の学生をサポートする制度を活用する。その一つが、授業内容をノートに記録する『ノートテイク』という制度だ。クラスメートやボランティアの人たちに頼んで、聴覚障害学生の隣に座ってもらい、授業の内容まで伝わるように詳しくノートをとってもらう。

「ノートテイク制度はとても助かります。ノートテイカーがもっと増えると嬉しいです。私は小学生で徐々に耳が聞こえなくなり、中学は聾学校へ入学しました。聾学校で手話と、口の動きを読む読話を習いました。大学二年生の今は、手話のできる健常者を増やすために手話を教える活動をしています。そして、困っていることを声に出す事で、私は両者の架け橋になる道を広げていきたいです。」と、卒業生は夢を語った。

失語症者の会話パートナーをしている女性の記事を読んだ。新宿駅の改札口付近で、言語障害者に道を尋ねられたという。ちょうど失語症のことを勉強していたので、彼女は自然体で接することができたそうだ。

この障害者は、たぶん状況からして私のことだ。

私は構音障害を負ってから、2つのクセが強くなった。

会話の途中で「私の言いたいこと、分かる?」と、しつこく確かめるクセ。

上手く話せなくて、話しながら自分の右頰を叩いてしまうクセ。

私の気持ちは伝わったのか、本当に分かってもらえたのか、不安になる。 相手の返事は「心配しなくても大丈夫。よく分かるよ。」と、いつも同じだった。家族は「もう慣れたから、何とも思わないよ。前の話し方は忘れちゃった。」と、あっけらかんだ。

まわりの人たちは、私が思うほど気にしてないようだ。それならば、あれこれと人の目を気にしていたら身がもたない。

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【退職】

リハビリで2カ月間の入院が終わると、私は急いで職場に行った。

玄関ホールの香りは変わらないが、私の靴箱はない。 職員の共有スペースとして物が積まれ、私の机もない。 私は、身の置き所もない。 なんだか『浦島太郎』みたいだ。

復職の話し合いは、惨憺たるものだった。

人事係は、限られた時間にたくさん質問をしようと、早口になる。

「仕事をする気はありますか?」 私「あります。」

「仕事をやれる自信はありますか?」 私「あります。(やってみなけりゃ分からないよ)」

「体調が良くなったから自信が出てきたのか、それとも体調には不安があるが意欲は残っているのか、どっちですか?」 私「・・・(自信?不安?意欲?)」

たたみかけるように言われても、私は分からない。 激しい動悸がして、唾液は干上がり、声も出ない。 チビチビと水をすすっては、口を潤す。 まるで、ヘビに睨まれたカエルだ。

でも、退職しますとは、口が裂けても言わない。

人事係は顔を引きつらせ、何度も頭を下げた。

「すみませんが働けることを実証してください。我々公務員はボランティアではないので、これ以上あなたの面倒は見られません。前例がないので自主的に退職をご自身でお決めください。」 私「・・・(血圧急上昇)」

面談が終わると、血圧は215-115だった。

このような話し合いは50回以上。ただ、役所に出向いたのはわずかで、もっぱら電話を使うことにした。 電話恐怖症の私が電話で勝負するのはヘンだが、面談でみじめになるより、はるかにマシだ。

というワケで、電話の周りに何枚もメモを並べて、深呼吸してから受話器を握った。そして相手の質問を聞くと、返事となるメモを探して、ゆっくりと読み上げた。慣れてくるとカルタのように手がのびて、返事はだいぶ楽になった。

こんなことの繰り返しを3年間。 もう復職したいのか、したくないのか、自分でもワケが分からなくなった。

戦意を無くし、退職することにした。 でも、復職交渉を続けて頭を酷使したおかげか、構音障害はあまり目立たなくなっていた。

追い詰められると、バカぢからが出るものだ。

不安をリハビリする【愉快な母の人生】⑤私の冗談は棒読みになる。

母視点で書いてみました。

【地域のサークルに参加】

病院のリハビリが終わって、私はやっと一息ついた。気が抜けた。すると、人の声やテレビの音が耳障りでうるさく感じるようになった。世の中はこんなに忙しなくていいのかと心配になった。

家でのんびり過ごしていると息子に言われた。

「こういうときは滅多にないから、のんびりしなよ。好きな本を読んだり、ウマイものを食べたり、散歩をしたり…」

確かに今は、好きでもないことはしたくない。

しかし、ここで気がついた。 今の私に出来そうなことが思いつかない。したいことも特にない。何度考えても、いい案は浮かばない。

だから、慌てて表に書き出した。タイトルは『口と手のリハビリになるもの』だ。 口は話す、読む、歌う。手は書く、何か作る、と項目をつくり頭の中を整理していく。あとは項目別に具体的なものを見つけるだけだ。 さっそく手元にある区報紙をめくると、コーラス、朗読などが並んでいる。

数日かかったが、地域のサークルにやっと参加することにした。

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➖コーラス➖

コーラスは月3回、2時間ずつ。 歌う前には必ず「腹式呼吸」と「首・肩・手のストレッチ体操」をする。他にもリズム感を養うために「リトミック」「発声練習」がある。

どれもこれも、構音障害のリハビリになる!

しかし練習を重ねるうちに、胸の高鳴りは消えていった。

四分音符がとても速く感じる。歌っていると息が苦しい。肺活量が低下している?腹式呼吸が下手なのか?

リトミックで動きを止めると、前にツンのめって周りの人にぶつかる。この不思議な動きはどうすればいいのか迷う。

「皆さん、歌詞の意味を掴んでください。理解して歌うのとソウじゃないのとでは全然違いますよ。それから、口から上の方の眉間のあたりを響かせるつもりで声を出しましょう。ハーモニーも大切ですから、互いの声を良く聞いてください。はじめは一緒だった響きが、徐々に分かれていく感じです。バラバラではありませんよ。」

先生のアドバイスで余計に分からなくなる。 それでも3ヶ月間練習して高音が出せるようになると、区民音楽祭に出場した。

➖朗読➖

朗読は月1回で3時間。 「ストレッチ体操」「発声」「早口言葉」をまず練習する。 私は元々ゆっくり話す。今は更に間延びして話す。だから、他の会員の足を引っ張らないかとヒヤヒヤだ。

しかし、先生は褒めてくれる。

「あなたのノビノビとした読み方は、きちんと相手の心に届く時間があるわね。朗読の原点を皆に知らせてくれる。だから、速くしゃべらなくても構わないわよ。」

ハムレットの朗読では、自分の分担を最後まで読めるかが問題だった。ただの会話でさえモタつくのに、朗読は更に慎重に読み進めなければならない。どんなに注意していても、途中で何度も舌がもつれる。

先生は言う。

「文章を優しく聞き手の心に届けるつもりで、伝えようとする気持ちが大切なの。器用にこなさなくても、真実が伝わればそれでいいのよ。」

「お願いだから棒読みはしないで。ゆっくりでチットモ構わないけど、この登場人物は冗談を言っているのだから、この人の気持ちで喋ってちょうだい。」

私も分かっちゃいる。けど、冗談だって棒読みになる。

山本周五郎の『失聴記』が題材になったときも、私は文章を味わってなどいられない。耳が聞こえないばかりに友を斬ってしまう話だ。

先生はまた言う。

「肩の力を抜いて、優しい気持ちで読んでちょうだい。」

この頃、リハビリ医に言われた。

「同じ症状の患者さんが、10年くらいしたら少し喋りやすくなったって言っていましたよ。言葉は、一枚一枚と薄皮をむくように効果が出てくるようですね。」

そんな悠長なことを…でも考えてみれば、焦ってもどうにもならない。時間はタップリある。書くことにもチャレンジしてみたくなった。

➖文集➖

文集は月1回で3時間。

家族とともに生きたことを残しておきたい。話すのは難しいが、文章にすると自分の言葉を目で確認できる。パソコンを使うので、手も疲れにくい。

いつでもメモをとるようにした。テレビのニュースは、画面に映るテロップを静止画像にしてメモした。

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➖絵手紙➖

『ヘタでいい。ヘタがいい』の絵手紙の本を見つけた。こんな絵ならマヒした右手でも何とかなりそうだ。すぐ入会した。

絵手紙は月2回、2時間ずつ。 会員たちと一緒に、黙々と筆を動かす。先生も私の横で描いている。

先生は鑑賞のコツを教えてくれる。

「描きたい物を良く見ているだけではダメだよ。筆の持ち方、筆に含ませる墨の量、腕の動かし方も考えないと。紙面に表れないことをいかに感じるか、これが上達の秘訣だよ。」

これら4つのサークルでは、私の後遺症のことを打ち明けた。迷いながらも思い切った。

「エッ!もともと優しい口調かと思ってた。」 「それはどういう病気?」 「何か事情があるのかなって思ってた。」

十人十色の反応だった。病気で不便な生活だが、障害があるからこそ気づけたことがあった。病気のおかげで、今は至福のときではないかと思えてきた。

失語症友の会➖

構音障害者の会を探していると、言語聴覚士に言われた。「失語症友の会ならあります。重い症状の方が多いから、あなた向きかどうか分からないけど、一度見学してみます?」

早速、友の会に参加した。

言語聴覚士の指導で3グループに分かれて、買い物ゲームが始まった。 たくさんのスーパーのチラシの中から20万円分の買い物をして、より20万円に近い買い物ができたら勝ちになった。数万円の家電製品から1カン105円の寿司まで、いろいろ組み合わせて20万円に収めなければならない。

何を買うのか時間をかける人もいれば、電卓を叩きながらセッセと買い物する人もいた。みんなでワイワイと頭の体操になった。

次は言葉のすごろくゲーム。 袋の中からカードを引き、言葉の数だけ進む。すごろくの落とし穴に近づくと「3つの文字は引かないで」「2つはダメだよ」と賑やかだ。

最後は発声練習を兼ねて、『浜辺の歌』『あこがれのハワイ航路』を大きな声で歌う。

「あなたのような方が参加したら、会員も喜ぶでしょう。ぜひ会を盛り上げてください。」と言語聴覚士に誘ってもらった。

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➖再び理学療法

地域のサークル活動を2年近くした頃、私は大ピンチに見舞われた。 足腰を鍛えようと速足で歩いていたら、突然マヒ足に鈍い痛みを感じた。転びも、ぶつけもしないのに、ふくらはぎが腫れあがった。足を動かそうにも今度は激痛が走った。

レントゲンでは異常なし。でもMRI検査で、半月板断裂と判明。半月板は 膝関節の中にあり、骨と骨の衝撃を和らげるクッションの役割をしている。 「足が痛くて…我慢できません。」と整形外科医に訴えたが、感情も言葉も切迫感も上手く伝わらない。診断だけで痛み止めの薬が貰えず、診察は終了。

だが痛い。痛くて我慢できないので、すぐにリハビリ科へ行った。リハビリ医は私の話を黙って聞き、「まずは薬で痛みを和らげましょう。」と言ってくれた。

痛みが軽くなると、ひざにコルセットを巻き、松葉杖を持って理学療法を始めた。

右足はどう動かすの?歩幅は?杖の使い方は?…と、たった一歩を歩く度にわめいた。

今になって理学療法士に言われていた注意を思い出した。

「頑張り過ぎはダメですよ。毎日、少しずつやっていきましょう。」

そしてもう一つ、大間違いに気づいた。

私はリハビリ科の待合室で手足が不自由な患者に会うと、言語障害より手足の不自由な方が良かったのに、と羨ましかった。

でも、自分の身に降りかかってみると、体のどこが悪くても本当に大変だった。

不安をリハビリする【愉快な母の人生】④刺身の美味しい店と、コミュニケーションの取れない私。

母視点で書いてみました。

【外見からは分からない障害】

リハビリ病棟に入院中、友達が見舞いにきてくれた。

元気なころの自分と比較されないか、会話になるだろうか、と急に不安になった。

しょうがないので、アッそうなの!されで?どうして?と相槌や短い質問を繰り返すことにした。

「言葉のリハビリはどんなことをするの?」と、彼女。

「ウ〜ン…早口言葉…とか…」と、私は詳しく説明できないので、短い返事をした。

彼女は早口言葉と聞いて、すぐに言葉遊びをイメージした。本当は楽しい言葉遊びではなく滑舌の練習だけど、互いのイメージは完全にズレていた。

しばらくして、彼女の視線はベッドサイドに移った。 「鶴を折っているの?」

「ウン…まだ…ある…」

私は引き出しを開けて、中の折鶴を見せた。毎日折っているので、かなりの数になっている。

「鶴って案外、難しいよね。」と彼女は言いながら鶴を折りはじめた。

私は黙って見ていたが、彼女にどう思われるかと不安に気を取られていた。

言語リハビリの効果があるのは最初の1ヶ月。おまけしても3ヶ月から半年だそうだ。この時期を超えると、目に見えるほどの改善は期待できなくなる。

リハビリをやるか、やらないか…やるしかない!

やがて桜の季節を迎えた。リハビリの合間に、病院にある桜の木の下のベンチに座る。

桜をじっくり眺める。何もせずに眺める。いつまでも…眺める。以前は忙しく仕事をしていたなんて、ウソみたい…。

ふと20年前の、仕事で家庭訪問をした日のことを思い出した。

相手宅のエレベーターに閉じ込められた私は、あわてて緊急ボタンを押していた。係の人の声を聞くまで、ボタンを狂ったように押し続けるた。心細さはアッという間に恐怖感に変わった。

しばらくしてやっと係の人につながり、「大丈夫ですよ。もう少しで開きますからね。頑張ってください。」 と声をかけ続けてもらった。救出されるまでの会話のやりとりで、私はパニックにならずにいられた。

でも、今は違う。コミュニケーションが取れない。

夕方になると、リハビリ病棟は大勢の見舞い客で賑やかだった。彼らは私に目がとまると「あなたはお元気そうだけど、どこが悪いのですか?」と、戸惑いがちに声をかけてきた。 「体は動くのだから、上手く話せないだけならイイじゃないですか?それに大きな声じゃ言えないけど、オツムも弱ってないでしょ?不幸中の幸いでしたね…」と、慰められた。

この状態のどこが良かったというのか。私は、もう住む世界が違ってしまったことが寂しかった。

側にいた看護師は諭すように言った。 「あなたは何の病気なのか、外見からは分かりません。だから、退院したらいろいろ辛くなるでしょう。難しいけれど、自分の症状を周りの人に隠さないことも必要になりますよ。」

【リハビリ病棟は情報満載】

私は減塩食だから、退院後の食事が気になっていた。退院後しばらくは食事の宅配を頼みたい。 そこで、病院の献立表を見ながら、担当看護師に相談した。

「食事は…減塩で…カタログ…見たい…」

同じようにして障害者用グッズも相談した。血圧計、マヒがあっても使いやすい文房具に食器に台所用品のパンフレット。ここから自分に必要なものを探すことにした。 この作業はいろいろと考えることが多く、なかなか決まらない。値段、使用頻度、収納場所であたまの中はゴチャゴチャ。そこで、分かりやすく紙に表を書いてまとめてみた。

毎日利用する病棟食堂にも情報はたくさんあった。

まず、入院患者から介護保険について教わった。 彼女は老人ホームでボランティアの経験があるので、とても詳しかった。「あのね、介護保険の認定を受けるのが先よ。これは家族が困らないように必要だから、上手に利用したらいいわ。」説明は、シンプルに要点だけなので分かりやすい。

また、雑談も見直した。役に立つ情報が多く、貴重な裏話も聞けるし質問をする機会にもなった。

「…なんて言うか…えーと…困っている…えーと…だから…はっきり言うと…結局…」

実際はどうして困っているのか自分で整理できず、子供が大人の会話に割り込んだようだ。でも、私にはイイ脳トレになった。

病棟食堂で患者の付き添いをしているのは、女性がほとんどだ。女性は家事に育児に介護まで、なんとかやっている。もし介護者が男性ならそう簡単にはいかないだろう、と思っていた。でも労わりあう老夫婦に出会えた。

老夫婦の家は魚屋をしていて、旦那さんが昼と夜の2回、奥さんの食事の世話をしにきていた。

「俺があの世に行くときには女房も一緒に連れて行ってくれと、息子たちに頼まれてね。俺は若い頃から女房には苦労をかけっぱなしだから、今日まで魚屋をやれたのはぜんぶ女房のオカゲだよ。あんたの症状も良くなったらウチの店においで。美味い刺身をごちそうするからよ。」と、旦那さんは言った。

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【通院でリハビリ】

退院してからも、外来で言語療法を半年と作業療法を1年受けた。

➖言語療法➖

前半の3カ月は毎週1回、後半の3カ月は隔週1回通った。効果はあって、発音はだいぶ改善された。だが相変わらず「はい」「そうですね」と簡単な返事ばかりで、言いたいことを順序立てて言えなかった。 だから、リハビリは発音練習より会話練習が中心になった。

言語聴覚士は私に質問しながら会話をリードしていった。

私は、好きな食べ物や好きなスポーツの質問ならナントカなった。しかし「タマネギを刻みときには涙が出てしまうが、どうしたらいいか」とか「車を運転していて眠くなったが、どうしましょう」など、事態への対応をあれこれ考えて述べることになると、途端にシンドクなった。問題を聞いたときは簡単に思えるが、話し始めると難しすぎた。

でも私は、もっと複雑な問題を要求した。

「1歳と3歳の子を持つ母親です。そろそろ働きに出たいのですが、夫は家事と育児をやって欲しいからと賛成しません。さて、どうしたらいいでしょう。」

「『どうも目の具合が悪い』『糖尿の気があるんだ』と聞いてもいないことを自ら話したがる人がいます。あなたはどう思いますか。」

などだ。もちろん歯がたたない。

ある日、言語聴覚士に言われた。 「もう、あなたに教えられることが残っていません。考えを話す機会は、普段の生活でたくさんあります。あとは、家庭や地域で練習した方が良いでしょう。だから心配しないで、積極的に地域に出てください。」

このまま言語療法室の主になるつもりだった私は、ショックが大きい。

しかし、『あなたはもっと上達する』と太鼓判を押されたように感じ、迷いながらも言語療法室を卒業することにした。

これまで練習に使ったプリントは、100枚を超えていた。

作業療法

右手が重かったりダルくなるので、作業療法士に相談した。右手を酷使しないように気をつけていても、使いすぎてしまうようだ。

作業療法士のアドバイスで、家事の後には手首にコルセットを巻いて疲れをとるようにした。

なかなか職場復帰が見えてこないことで、私が不安になるたびに作業療法士は言った。

「私は患者さんの不利になることはしません。安心して何でも相談してください。将来的に仕事も可能だと思います。でも今は、目の前のリハビリを励みましょう。」

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【リハビリ科の待合室】

リハビリ科の通院は、朝からワクワクする。待合室で顔見知りと会えるからだ。

リハビリ病棟の元気なおじさん達は以前と少し変わっていた。

「今度は糖尿病で入院だ。」

「仕事の交渉が出来なくなってしまった。自分が何をどうしたいのかハッキリしない。取引先に行くのも疲れる。家族はこっそり後をつけてきて、『廊下を真っ直ぐ歩けてなかった』なんて言うし。社長は息子に譲ることにしたよ。」

リハビリ科の待合室は、ほかにも出会いがあった。

「あなたはどこが悪いの?」私ね隣に座ったおじいさんが声をかけてきた。口調はたどたどしく、ひと言ひと言に力を入れて話すのですぐ構音障害だと分かる。彼は20年前に、脳梗塞で右半身マヒと構音障害が残ったそうだ。

「若いときから…社交ダンスをした…倒れてからも…」「タンゴだろ…ジルバだろ…マンボだろ…ワルツも…女性が多いから…踊ってもらえた…こういう風に指を折って…手のリハビリをしたよ…」と指を折り始めた。

だが6年前に再発して、一週間は意識が戻らなかったそうだ。

「2度目に…倒れたときはダメ…踊れない…踊ってもらえない…タンゴ…ジルバ…マンボ…ワルツ…みんな踊れない…やめた…残念だけど…」

彼はリュックサックの中からペットボトルを取り出して、口を潤した。そしてリュックサックにもう一度、手を入れた。

「これ…俺の運転免許証と名刺…もう必要ない…今は運転してない…仕事もしてない…けど一生懸命だった…大変だった…けど…戦争に比べたら…何だってラクだ…」

「俺…若いときに…戦争で中国に行った…大砲を運ぶ…野砲兵だ…戦争が激しくなると…野砲兵も…前の方で戦う…敵の弾が…ビュンビュンかすめて…恐ろしかった…もうダメ…何度も思った…国は残酷だ…後に逃げたら…撃ち殺す…前に進め…命令する…前は敵…後退すれば…味方に殺される…どっちみち俺たちは殺される…」

4年後に再び日本の土を踏めた野砲兵は、ほんの僅かだったそうだ。 彼は夢中で働いて二度も脳梗塞で倒れたが、それでも生きている。 人生って不思議だ。山あり谷ありだけど、見ず知らずの私たちはそのとき、同じ病と戦う戦友同士だった。

入院中に隣のベッドにいた失語症の彼女にも再会した。私は彼女の隣に腰を下ろした。

「お互いに生きていて…よかったね…」

私は胸が熱くなり、これ以上は言えない。彼女はニコニコと頷いていた。交わした言葉は少ないけれど、これで十分だ。

入院中、同室だった彼女たちも集まってきた。彼女たちに囲まれて、私はリラックスできた。

私は彼女たちに遠慮なく伝えた。

「ごめん、自分の気持ちを、上手く言えなくて…」「もう少し、ゆっくり話して…」「私の名前を呼んでから、話して、私に、話してるって、分かるから…」

また、彼女たちとは話すコツをつかんだ。それは喋りすぎないこと。

自分のペースを守りながら話したり口を休めたりと、時間配分が必要だった。舌が前歯の裏にベタッと貼りついたりアゴの関節が痛んできたら、話すのに疲れてきたサインだった。根気が続かない、疲れやすいという症状は、私たち皆が抱えていた。

最後に一人の彼女が言った。

「…一人になると涙がでることがある…」

私たち皆は知っていた。それは、今も生きているという感謝の涙だ。私も医学がこんなに発展していなかったら、脳梗塞で命がなかったのではないか。そう思うと、日常の些細なことにも感謝したくなった。

不安をリハビリする【愉快な母の人生】③トイレには自動開閉と集中が必要

母視点で書いてみました。

【リハビリの基本】

退院してから2日たった。

朝から、どう話したらよいか….分からない。

症状はぶり返して、救急車を呼んだ。救急隊にうまく説明できなくなり、持っている入院証明書と退院許可書をみせると、再び都立病院に搬送された。

だが、頭のCTを検査しても特に異常は見つからない。

「検査では異常がなかったとしても、自覚症状はあったのですね。それでしたら、もう一度入院して少し様子を見ましょうよ。」

検査の結果よりも、患者の自覚症状を気にしてくれる医師がいる! すぐに再入院となり、脳のムクミを取るために点滴を3日間続けたあと、そのまま2カ月間のリハビリを受けた。

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➖言語療法➖

はじめに読み、書き、計算のテストを受ける。

マヒ手でゆっくりと名前、生年月日、住所を漢字で書く。

数枚の絵カードを見ながら、その名前を言う。

言語聴覚士の話す単語や短い文、少し長い文を復唱する。

最後に計算問題。足し算。引き算は100から7を引き続ける。掛け算は分数と小数だが、やり方を忘れていた。

言語療法は言語聴覚士との真剣勝負だった。 舌は上アゴにつき、ノドの奥の方に滑らせたいが思うように動かない。こんな状態で、発声の練習をする。

最難関はラ行だ。 「舌を下に降ろして、アゴは動かさないでください」とアドバイスを受けるが、舌の動きにつられてアゴも動いてしまう。

カ行はスピードが必要で一苦労する。 コやロの音は「唇をもう少し丸めて…アゴを突き出さないで止めてください。息漏れに気をつけて、そのまま…」と言われる。

一つ一つの発音を気にすると、舌とアゴの動きがバラバラになってしまう。だから、言語聴覚士の口の動きと、手鏡に映る自分の口を見比べながら悪戦苦闘だ。

ほかに「上、下、上、下…今度は右、左、右…次は舌を前に….後に引いて…」と、舌の突き出し運動をする。 左右の動きは難しい。舌を右側に動かそうとすると、バネ仕掛けみたいに左側に引き戻されてしまう。

この運動の最後は舌先で唇を一周、右回りと左回りでおしまい。

次は早口言葉で滑舌の練習だ。早口言葉は言いにくいし息苦しくなる。ハタと気づくと息まで止めている。

言語聴覚士に「そこは息だけで話すと楽ですよ」とか「ひと言ひと言に力を入れないで、いい加減にしゃべってみてください」とアドバイスされるが、お手上げだ。

不安になるのは、最後に「明日の言語療法の時間は○時○分になります。いいですか?」と尋ねられるとき。 ハイと応えるが、療法室を出るころには約束の時間がアヤフヤになる。 仕方ないから、テキストの端に書いてもらった。

こうして2カ月が過ぎ、退院の日が近づいた。 「私の声…前より…低くなった…みたい…」と、ようやく変化に気づいた。

だから言語聴覚士は「病前と比べて何か変わったところはないですか?」「他にも難しいと感じることはありますか?」と、毎日尋ねていたのか。今まで、なぜこのような質問をされるのか分かっていなかった。

私がうつむいてしまうと、言語聴覚士が声をかけた。 「考えても仕方がないですから、一緒に腹式呼吸でもしましょう。鼻から息をたくさん吸ってください。息を止めたら、できるだけ長く吐いてください。」

話す姿勢も大事になる。 「肩は動かさずに、背中をピンと伸ばして上半身を楽にしてください。」この姿勢で大きな声を出そうとしても小さな声しか出なかった。

作業療法

間違わないように、名前と住所を漢字で書く。それから、パズルや立方体キューブを使って見本を真似る。難易度を上げても難なく突破。 最後のテストは○△□の組合せの図を覚えて、見ないで同じ図を描いてみる。 が、今見たばかりなのに全く思い出せない。

作業療法士からは「年相応です」と慰められた。

作業療法は、とてもリラックスできた。 「痛くならない程度にマヒした指を動かしましょう。これで指の関節や筋肉の衰えを防げます。1日1回でも大丈夫です。」 と、宝物でも扱うように私の指を曲げたり伸ばしたりするからだ。

終わると次の課題に移る。

右手に余分な力が入ってしまうので、手の力を抜くことを覚えなければならなかった。しかし、どう説明されてもその微妙な感覚が分からない。右手でテーブルをからぶきしてみる。何度しても、手に力を入れるから上手くいかない。

ほかにはメガネケースや財布を作ったり、ペグ操作もする。ときどきペグを動かす手を止めて、庭の景色に目をやる。風に身を任せながら、桜が舞っている。私も、何も考えないでただ自然に包まれていたい…。

イスに座って作業療法を受けるとき、自分の姿勢や足の位置まで気が回らない、というより全く意識できない。 作業療法士からは「ちゃんと腰掛けて踵を床につけましょう。右足が浮いていますよ…」と、しばしば注意された。

普段ならありえないことだが、凍りついたこともある。洋式トイレで急いで排尿してみると、外蓋の上だったり。蓋の開閉に気づかないで、スッポリ便器の中に沈んだり。

これ全部私がしたの?あわて者だから?勘違い?…とビビったが繰り返すうちに、何かに気を取られると他のことまで頭が回らないことに気づいた。

理学療法

スタスタ歩いて理学療法室に入るので、まわりの患者は不思議に思うらしい。

でも私は「なんか…私の右足が…長くなったような…違うような…」と、いつもシドロモドロになる。どうしてなのか分からないけど、右足に違和感があるのは確かだ。上手く説明できないでいるとき、リハビリ医は理学療法もすすめてくれた。

理学療法士からは「疲れたら無理しないで休んでください」と言われるが、私は『ムリしなくて、いつするのよ〜。ムリじゃなくムチャしたら言ってよ〜』とヤケクソな気持ちだった。

そして、ストレッチ体操と自転車エルゴスメーターこぎを繰り返した。

【リハビリ仲間】

私がリハビリ科に転院した頃。

新聞には『植村直己冒険賞』を受賞した登山家夫妻が、登頂を果たし生還するまでを語っていた。

二人とも重度の凍傷を負ったのだ。夫は両手指の4本半と右足指ゼンブ。妻も、すでに第一関節がない両手指ゼンブを更に一関節分も失ってしまった。

でも再び登頂を目指すという。

「もう、おむすびは握れないかな」と妻。

「リスクは覚悟のうえ。『よく帰ってきたね』と植村さんからご褒美もいただけたし。いい登山だった。」と夫。二人とも、どんな状況でも弱音を吐かない。

私は早速、この記事を音読用のテキストにした。言いにくい箇所に赤ペンを入れたら、記事は真っ赤になった。

通院でリハビリを終えた頃。

失語症者、言語聴覚士になる』という、本の紹介を見た。

エッ、失語症者でも言語聴覚士になれたの?と思いながら、本をめくってみる。

著者は大学生のときに交通事故で左脳を損傷して失語症になった。殻に籠りがちだったが、新しい生活を模索し続けて失語症と付き合いながら言語聴覚士になったのだ。

私は、よくぞ戦い抜いたと感激した。

ほかにも仲間の存在をいたるところで感じる。

リハビリ科の診察室は、患者の作品がズラリと並んでいる。

紙面いっぱいに太く元気な字。利き手のマヒで反対の手に筆を握ったのだろう、タッチが弱い字。絵手紙の鮮やかな色は、順調に回復している証かしら。

『ねこ新聞』なるものも、診察室の壁に登場した。

これはきっと、忙しすぎるリハビリ医を心配した患者からのプレゼントだろう。

不安をリハビリする【愉快な母の人生】②騒ぐという漢字と感じ

母視点で書いてみました。

【早期リハビリの効果】

夫は障害福祉センターの言語聴覚士や作業・理学療法士に相談に行った。

言語聴覚士(ST)のアドバイス

「リハビリはSTなしでも、始めたほうがいいでしょう。難しい内容の本は避け、短い童話がオススメです。童謡も、効果的です。」

童話に童謡か、なるほど。幼子のように、はじめから順を追って練習しよう。

看護師に、小児科から本を借りてもらった。 星野富弘さんの詩や、かちかち山などの童話だ。 黙っていれば感じないが、ひと言でも読みはじめると息苦しい。

大声は出せないが、か細い声で童謡を歌うと、一本調子の超スローな歌い方になる。

舌は、山椒を噛んだみたいに舌先が痺れっぱなしだ。だから、しょっちゅう口の中を噛んでしまったり、口元からヨダレが漏れる。だから舌の動きを良くしようと、毎日ガムを差し入れてもらった。

作業療法士(OT)のアドバイス

「グー、チョキ、パーと、ゆっくり指を動かしてください。ひらがなを書くときは、鉛筆よりも太いサインペンを使い、小学生用の升目の大きいノートに書くといいでしょう。」

ペンは握れても、手に力が入らないのでイトミミズが這ったような字だ。 たまたま発症の直前に申し込んだボールペン字の通信講座が届いたので、すぐに書字の練習を始めた。

すると同室の患者は「大変ですね。でも大丈夫。あなたは若いから、きっと良くなりますよ。私は80歳を過ぎてから毎日、体操をしているの。ホラ、手首もだいぶ柔らかいでしょ?手と脳は繋がっているからね」と教えてくれた。 なるほど、手先を使うといいのか。 すぐに家にある折り紙で毎日、鶴を折ることにした。

理学療法士(PT)のアドバイス

横になるとマヒ足がピクピク痙攣する。

「状態を見ないので分からないが、足の指だけで動かすといいですね。床にタオルを置いて、足の指でそのタオルを引き寄せてください。」

リハビリは早い時期ほど効果的だから直接、専門家の指導を受けるようにと療法士たちは口をそろえた。

私はアドバイスを参考にして、発症から1週間を待たずにリハビリを始めた。 点滴をつけたままベッドの上で、朝から晩まで独自のリハビリメニューを繰り返す。 外はどんよりと雲に覆われて、街の喧騒も何もかも私の病室には届かないから、一人でリハビリするには好都合だった。

【転院したい】

脳梗塞の発症から1週間が過ぎた。

「退院後はここで治療をしながら、別の病院へリハビリに通ったらどうですか」と主治医に勧められた。

しかし私の体調で2箇所の通院はきつい。

夫がいろいろ調べてみたら、STの不足で大きな病院でも言語療法ができるとは限らない。運良く言語療法ができても、順番待ちの患者が多いので月に数回通う程度になるようだ。

だから夫は主治医に相談した。

「病状が落ち着いたら直ぐにリハビリを始めたいので、病院を紹介してください。できれば、患者本人が自宅から通える所だと助かります。MRIがあり、言語療法士や作業、理学療法士も揃っていると安心できます。できたら、この病院と連携している所だといいのですが…」

夫から主治医に相談してから数日後。 ようやく病院内のメディカル・ソーシャルワーカー(MSW)を紹介された。 病院に勤務するMSWは、医師と患者・家族の間で話し合いを進める。そして患者や家族の要望を聞いて、必要なら情報を提供して段取りを整えてくれる。

まずMSWに頼んで、受け入れてくれる病院探しを始めた。

すべては時間との戦いだ。 夫は病院側と話し合い、近くの都立病院を第一候補に選んだ。MSWは病室にきて「今から病院に予約診療の電話を入れますが、ご都合を聞かせてください。」

待ちくたびれた私は、病院から外出許可をもらうとリハビリ科にすっ飛んで行った。 でも、即入院とはならない。

「…先生…助けてください…仕事が私を…待ってます…どうか…」と、私はロレツがまわらない口でポツリポツリとメモを読んだ。 リハビリ医は、「ちょうどベッドが一つ空いたばかりだ」とつぶやいた。 このチャンスを逃してなるものか!

私は2週間の予定で空きベッドを手に入れた。専門家の特訓を2週間も受ければ、症状はマシになるだろうと思った。

早速入院の手続きをすませると、今いる病院に戻った。 病院では「おめでとうございます。いよいよリハビリですね。ラッキーですね。」と、主治医も看護師も喜んでくれた。私は努力が報われた気がした。

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【リハビリ病棟に転院】

脳梗塞を発症して3週間後、私は夫に付き添われて都立病院に転院した。

あと少し、たった2週間の辛抱よ!これで苦しかった生活からサヨナラだ!と、はやる心を抑えるのに一苦労した。

だが、入院してみるとリハビリ病棟のイメージはずいぶん違っていた。

ここでは、患者は一日中パジャマでベッドにいない。不必要な安静は、かえって回復を送らせてしまうので、なるべく日常生活に近づけている。 面会時間は朝の7時から夜の9時まで。入浴は毎日30分。食事の場所は病室でも病棟食堂でもよい。

リハビリ病棟の廊下は車椅子が往来できるように広いから、毎日、男性患者の溜まり場になっていた。 いくつものグループが朝昼晩の3回、廊下で賑やかにするのだ。

驚いていると「あんたは…どこが悪いの?」と、車椅子の男性に声をかけられた。「この時間はオムツ交換だよ。看護師は仕事だから気にしないけど、オムツの世話になるモンは堪らないよ。だから動けるモンはそっと廊下に出て、大きな声で騒ぐんだ。本人に気づかないフリしてさ。可哀想で見てられないよ」と、教えてくれた。

昔は、ケガや病気を治すのが医療でリハビリは医療ではない、と考えられたようだ。ところが今は患者のとらえ方が変わり、リハビリがクローズアップされてきた。

どこか具合が悪くなると療法士たちは、「こんな訓練をしたら無理なく体を動かせますよ」「痛みが走りませんよ」と教えてくれる。そして、家の中の危険箇所をチェックして家庭でも無理なく生活できるようにアドバイスをしてくれる。

言葉の問題があるときには言語聴覚士がいる。心理面で心配なら臨床心理士もいる。看護師は毎日の健康チェックや服薬の確認、患者を療法室に送迎したり必要に応じて日常生活の介助もする。 とにかくリハビリ科を受診すると、リハビリ医が患者にあった医療プランを立てるから療法士の指導を受けられる。

たった2週間だが、私は月曜から金曜まで週5日。療法時間は一日に全部で2時間まで。空いた時間は自主トレに励んだ。

病院のエレベーターを待つ間に発声練習。エレベーターの中でも歌を口ずさむ。洗面所の鏡の前では舌の体操をして、ノドの奥の軟口蓋を動かす。ベッドの上ではストレッチ体操。ベッドに腰かけて足の体操も。

まるでリハビリに取り憑かれた私を見て、同室の患者はアゼンとしていた。でも私は、リハビリの量に比例して症状は改善するものと信じて疑わなかった。

こうして2週間の入院はアッという間に終えた。